タイ語ネット

January 11, 2004

タイ語の理由

「なんでタイなん?」と問われれば、「好きだから。」と全く答えになってない返答しかできない。「どうして英語じゃなくて、中国語でもなくて、タイ語なの?」と問われれば、「笑顔の言葉だから。」と口幅ったく答えることも出来ると思う。「笑顔がうまくなったと思う。」と初めてのタイ旅行を終えた飛行機の中で書いた。お寺にも屋台にも市場にも、人々の素敵な笑顔が溢れていた。そしていつの間にか私の笑顔も上手になった。

自分のもっとも望むことをすること、自分の心に好ましい状況で生活すること、みずからに満ち足りること、それが一生を台無しにすることなのだろうか?
月と六ペンス モーム作 阿部知ニ訳 岩波文庫

タイに限らず、私はアジアに身をおいて生活したいとずっと思っていた。
韓国の人情、東アジアの喧騒、笑顔の国タイ。また、「サイゴンから来た妻と娘」の著者近藤紘一はベトナムについて、「地表にたちこめた、自然と人間の濃密な生命力」と述懐している。多様性の中に見えてくる、人の生(なま)の魅力をダイレクトに感じることができるという点でアジアに惹きつけられる人は多い。私もまたそんな一人である。大学生になった私は、高校のときからの目標であったとザック一つで異国を歩く旅にアルバイトで得たお金をつぎ込んだ。そのつど私はそこに住む人々の日常をひと時のあいだ共有させてもらい、魂のエネルギーを蓄えてきた。
次は、それら旅人として立ち寄っていたアジアの国々に腰をすえてみたい。そして笑顔を共有したいというのがタイを選んだ第一の理由である。まるで不純極まりないこの動機はあまり一般受けが良くないので大きな声では言えない。

心理学では、相手を好きになる時にはいくつか要因があり、その中の一つが「お互いが近くにいる」ということであった(ような気がする)。好きになるということが理解しあうことと換言することができるなら、近くに住むことはつまりその国の人々を理解するはじめの一歩となると思う。

一方、「旅行はただ楽しくて、刺激的だけど、3ヶ月以上住んでいると今まで見えないものが見えてくるよ」と言ったサークルの先輩の言葉を反芻する。旅行者でもなく国民でもない。いわばその中間の存在として、そこに生活するなかで一体なにを得ようとするのか。まだ定かな答えを持ち合わせていない。
ただ一つ。何かを見て何かを感じ、自らの言葉でそれを語りだすことが出来るようになった時、私は何かを得たと言えるのではないか。と思う。その目途はまだ朧な中をふわふわと漂っているものの、私はなんとなくそのあたりに存在するのではないかとちょっと真面目に思っている。


投稿者 hira : January 11, 2004 12:38 PM | トラックバック
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